論理の次に来るもの:安田登のゲスト講義とパフォーマンスをめぐって #青学VR

2019年11月8日(木)、能楽師で作家の安田登による講義が開かれた。そこでは「論理」を軸に漢字からシンギュラリティまで、様々な分野を横断したダイナミックな議論が展開された。また、講義の終わりには、夏目漱石「夢十夜・第三夜」の語りを暗闇の中で行うというパフォーマンスもあった。

ここでは、安田登の講義を受けて自分なりに考えたことをつづっていこうと思う。

論理の次に来るもの

安田登は講義の中で「論理に代わるものを考えなきゃいけない」と語っていた。

能楽師の安田登さん

論理というのはA故にBというものである。この「故」という字は「古」という字が変化してできたそうだ。古いという概念が誕生すると過去を考えることができるようになる。そうすると、古いことが起こったために、現在何かが起こる、という関係性について思考することができるようになるのだ。ここから、「故」、つまり論理が生まれた。これが、古代中国における論理の誕生である。

ある意味当然のことだが、この論理というものは、古代中国で誕生したときから変わっていない。しかし、安田登はそろそろこれに代わるものを考えようと言う。例えば、運や縁、勘。安田登はなぜかリトアニア人とよく出会うのだそう。なぜリトアニア人と出会うことが多いのか、論理的に説明することはできない。そういったことを説明する方法が、AIの時代に出てきてもよいのではないか、というのが安田登の論だ。

この話を聞いて私は複雑系ということを考えていた。複雑系は要素それぞれが複雑に影響を与えあうため定式化の難しいシステムだ。例えば、うねうねと動く鳥の群、気象、経済、生態系、人間の脳などが複雑系である。複雑系はA故にBという論理で考えることはできないシステムなのだ。

そして、AIも複雑系である。よくAIはどうしてそのような結果となったのか説明が難しいと言われているが、それは正にAIが複雑系であるためだ。

だから、ある意味AIそれ自体が論理を超えるものなのかもしれない。ただ、AIにはまだ論理的な「堅さ」が残っているように思う。AIには創造性があまり感じられないのだ。AIというのは当たり前のことを、人間より早く導き出す装置である。

したがって、実用的なAIよりも不安定で突拍子もない結果をだしてくるような複雑系は創造的と言えるだろう。例えば、人工的に生物を作り出そうというA-Lifeの研究はそういった発想である。

なぜかよくリトアニア人に出会うことが何かの法則によるものではないか、と考えるのは、人間が複雑系であるためだ。もしかしたら、論理の次に来るものは複雑系の文脈から生まれるかもしれない。

AIはメディアである

安田登は文字の変化についても言及していた。論理に代わるものを考えるためには、文字に代わる何かを作る必要があるのだと言う。安田登によれば、メディアが変わるとき、文字も変わってきた。例えば、粘土板を使用していた時代に使われていた楔形文字は、パピルスに書くようになると変化した。そうであれば、本に書いていた文字が電子メディアに変わるときにも、文字は変化するのではないかと安田登は考える。そして、次の文字が生まれるときは近い、とも。

能楽師の安田登さん

実際に文字の変化は起こっているものもあると私は思う。本や新聞というメディアで主流だった明朝体やセリフ体は、電子メディアでは見にくいため、ゴシック体、サンセリフ体が主に使われるようになった。もう少し本質的な変化としては、顔文字、Emoticonの登場も挙げられる。

メディア論の大家、マーシャル・マクルーハンが言うようにメディアは人間を拡張するのだ。人間はメディアとの相互作用の中にある。人間の営みはメディアによって形作られるのである。

シンギュラリティについて考えるときに、AIもメディアであるという認識を持つことが重要に思う。

講義に出てきた、粘土板からパピルスにメディアが変化した際に、文字が変わったということは、理論的に言えば、メディアの変化によって人間の営みが変わったと言える。上で述べたフォントや顔文字の例も同じだ。電子メディアによって、ゴシック体を多用するように人間の行動が変わったのである。

AIもメディアである。したがって、粘土板や電子メディアと同様にAIも私たちを変えていくだろう。AIは大量のデータから答えらしいものを出力するシステムだ。それは、従来の論理的で思考のプロセスが分かる答えの出し方とは異なる。実際にAIというメディアによって「答を出したときはなぜその答えになったのかを論理的に説明する」という人間の営みが変化しつつある。これは正にAIと人間の相互作用によってもたらされた変化だ。

AIと文字、論理という問題については、メディア論的に考えてみることが必要だ。AIというと技術的な側面や、短期的な社会実装、経済的影響について目が行きがちだが、メディア論の視点から見てみるとAIとは結局のところ何なのか、という本質的な部分が見えやすくなるだろう。AIによって社会、そして人間のあらゆる部分が大きく変わっていく時代に、AIはメディアであるということを頭に入れて、落ち着いて変化を見ていくべきである。

『夢十夜』「第三夜」とAI

 安田さんは講義の最後に夏目漱石『夢十夜』「第三夜」の語りを行った。なぜ「夢十夜・第三夜」なのかについて特に説明はなかった。しかし、『夢十夜』「第三夜」はAIと人間という問題を考える上で、示唆的な作品であることは確かに思う。

 『夢十夜』「第三夜」は、主人公が子供を負ぶっているところから始まる。しかし、負ぶっている子供はいつの間にか青坊主になり、目がつぶれ、大人のような言葉つきをするようになっていた。そして、不思議なことに、その子供は目が見えないはずなのに、なぜかどこにいるのか、周りに何があるのかわかるのだ。あるとき主人公が「この子供は目が見えないくせによく知っているな」と考えていると、その子供は「眼が見えないと馬鹿にされていけない」とまるで主人公の思考が分かっているかのように話す。主人公は不気味に思って負ぶっている子供を捨てようとするのだが、最後には子供から「お前はおれをちょうど百年前に殺した」と告げられる。すると主人公はちょうど百年前にその人を殺したような気がしてくる。『夢十夜』「第三夜」はこういうストーリーだ。

 AIがどのようにしてその答えに至ったのか人間にはよくわからない。例えば、店の混雑状況の推移をAIで予測すると、なぜかわからないが予測されたように混雑状況が変化するということだ。顧客への提案にAIを使ったとすれば、AIは「あなたはこんなものが欲しいと思っているのではないですか」と商品を勧める。すると勧められた人間は、確かにその商品は欲しいし、前からそういう商品が欲しかったような気がしてくる。しかし、それと同時に、AIに自分の欲しいものを当てられると、AIが自分よりも自分のことを知っているようでなんとなく不気味な気もしてくるだろう。

 『夢十夜』「第三夜」で描かれた主人公と子供の関係と、人間とAIの関係は重なって見える。『夢十夜』「第三夜」の子供は推理などの方法で周りの状況や主人公の思考を推測したのかもしれない。しかし、主人公はその子供を何でも分かる存在だと思い込んでしまう。人間は『夢十夜』「第三夜」の子供やAIのようなふるまいを見ると、それが超越的な力を持つ、なんでも分かる存在だと思い込んでしまうのかもしれない。実際、AIに関する表現でAIを擬人化したものが多い。これはAIを過剰評価しているわけであり、人間がAIについて超越的な力を持つ存在と思い込む傾向の表れと言えるだろう。

AIはあくまで人間の作り出した道具である。しかし、AIのような存在について人間は人間自身を投影してしまう。これはAI以外にも例えばロボットのような人間のような形をしたものについてもそうだろう。人間はただの機械の中に人間を見出してしまうのだ。

もしかしたら、AIの最も重大な危険は、AIの中に人間性を見出すという人間の習性を引き出してしまうところにあるのかもしれない。人間はAIをつい擬人化してしまうということを頭に入れて、それを差し引いてAIについての状況を捉えることが、変化の中で踊らされずにいるために必要なことだろう。(池原優斗)

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